昭和40年05月03日 朝の御理解
少し信心にならせて頂くと、早速心に喜びの芽が出る。その喜びの芽を、いよいよ一つにさせて頂くと、それが喜びの花になるです。ここのところまでは、お互い皆が体験する。(じつ?)にあのう、思うただけでも有り難い。思うただけでも喜びが湧く。それは神様の心に通う、叶うような思い方が出来るようになるからである。本気で改まらせて頂くぞと。本気で御用させて頂くぞと。
もうとにかく、美しゅうなる以外にはないんだ、本気で美しゅうなろうぞとこう、心に思うた。心に誓うた。それだけでも喜びが湧く。そして、その思うただけでもおかげの印を神様は見して下さる。ところが、それが喜びの花に止まってしまう。いわゆる散ってしまう。仇花で終わる。確かに有り難かったんけれども、消えていってしまう。それで私は、その実りになるところのおかげを頂かなければいけんと思う。
論語読みの論語知らず、というのかね、段々信心をさせて頂いて、様々なことが分からせてもらう。特に人のことならすぐ分かる。あの人はご信心を落としてござる。これじゃ、今にもお気付け頂きなさると。そこは一気に行きなさりゃ、おかげ頂きなさるとに、あそこんところを辛抱し抜きなさにゃお徳になろうのに、と言うことが分かる。論語が分かって来た。ところが実際自分のことになると、それを行の上に現す事が出来ん。論語読みも論語知らず。
先日ある方がある大変上手な人の話を、先生の話を聞かせてもらった。あれだけのことが話せる先生のところでどうして人が助からんじゃろうかっち。その先生が論語読みも論語知らずだからだと。口で教える事だけは、教えられるけれども、実際にそこに信者が助かっていないとするなら、そりゃ先生に(しんがらんぼよみならんごん?)知らず。言うばっかりの先生。聞くばっかりの信者と言うようなことになって来る。
言うただけではいけん、聞いただけではいけん。覚えれば(いいえもする?)ね、聞けば分かりもするけれども、それが、私は行になって現れてこなければ実りにならない。けれども今も申しますような、ほんにそうじゃなぁと、と例えば心の中に分からせてもらう。例えて言うなら、人が悪いとじゃなかった、私が悪かったとこう気付かせてもらうとだけでも有り難い。分かったことは神様は喜んで下さるかもしれん。
思うただけでも有り難い、神様の心に叶う様な事が思えれる事を神様は喜んで下さるはず。けどこれはどこまでも喜びに花が咲いたというにすぎんのである。それが本当にです、行の上に現される。私は福岡時代に私の懇意にしておる人に悪気でじゃないけれども、面白い人があった。電車に乗ってから皆が電車料電車賃を払うとね、笑うんですその人。あんただん電車に乗ってから電車賃払うっち言うてから笑うんです。
もうそげなんこと、その人と一緒に乗ると、もう実に器用にただ乗りが出来る人のあるですよ。面白がってそれをやるんですね。本当に驚くばかり。改札口の所やら、市内電車から降りる時に、人指し指を後ろに向けて、肩のせてから、後ろから来よるという意味のことを、口じゃ言わんのです。ね、改札口を出る時には、ほんとこう後ろの方へ指差す。後ろから来よざるばいのというように、そう思うらしいんです。
もう実にやっぱそれで通るんですね。皆さんはそれば実行でもしなさるといけませんよ(笑い)けれどもそういう事が何時までも続くのじゃないと言う事。私共のは信心の言わばお徳の電車に乗らせて頂いて、ただ乗りして居る様な事なかろうか。思うて見なきゃいけんですね。喜びの花が咲くね、その心の中に喜びを感ずる言わばそれが花が咲いただけでも思うただけでもおかげを、言わばおかげの印を神様は見せて下さる。
それだけで終わって居る様な信心であるとするならです、それはただ乗りと同じ事。薩摩守の神の忠度私は薩摩の神ではいけん。それが行に現されて時に成程論理読みを本当に論語を習うたと言うだけの、値打ちが出来た時に信心させて頂くのに値打ちというのは、ただおかげを受けるということだけじゃない。信心をさせて頂く者の値打というのは、真実徳を受けるということ。神様のご信用を受けるということ。
論語読みの論語知らずに終わってはならん。ただ乗りを、悪気じゃない。けれども、決めこんではおかげにならん。そして何時も、確かに喜びの花が咲くんだけれども、実ってはいない。ちょっとしたおかげは頂くんだけれども、それが本当のおかげに長続してない。(のびさつ?)自分達の信心のあぁ言うところが、それではなかろうかとまぁ気付かせて頂いて、そこをですね、元気な心でと。ね、
勇気を持って行の上に現していかなければならない。行の上に現した時に、初めてその花が実りになる。実りになるおかげを頂きたい。でないとね、おかげを受けたい、お気付けを頂いた、おかげを受けた、お気付けを頂いた。何時まで経ってもほんな事になってこない。私、子供の時に父が色々話をしてくれた中に、「かちかち山」って言う話、あの(おおび?)お話があるでしょう。あの「かちかち山」のあれは、前のところを(人通るです、そんな?)話をしてくれた。
あるところへお爺さんとお婆さんが住んでおった。お爺さんが畑に行ってから狸を捕まえて来た。そしてそれをがんじがらめに括ってから、上からぶら下げた。今夜ばあさん、私が帰ったら狸汁をするから、狸汁でもして待っとけて。待っとけと。と言うてその畑に出た。お婆さんはその狸を(吊り下げて明日で?)米を搗くわけですね。こう昔はよう(こよごめから?)白米にするわけなんですね。
ところが上に吊り下げられておるその狸が、お婆さんにね、お婆さんあんたが一人でついたんじゃきつかろうち。こっちの方一方ん手だけでもよかけんで緩めてくれんか。したら私が加勢するっち。それからお婆さんは、方一方の手のだけこう緩めてやった。これじゃぁどんこん杵も握られん。両方の手ばいっちょ緩めてくれんか。したらもうもうちっと加勢が出来ると。お、お婆さんなまた方一方んとば緩めてやった。
とうとうそんな事でですね、ね、全部解いてしもうた。さぁならこれからばあさん、いっちょ加勢するばいっち言ってからその、杵を取ってから、あのうお婆さんの頭をカツンとやったわけ。お婆さん死んでしもうた。そこでその狸は、お婆さんに化けてですね、お爺さんが帰ってくるのを待っておった。そしてそのお婆さんを殺しては(そだん?)それをその狸汁というてそのお爺さんに食べさせた。
今日の狸汁は美味しかった。裏口からで逃げたその狸が、裏口からお爺さんに、そこに憎たらしい悪口を言うて、山に逃げて行ったと。ね、あのじいがばば食うたっち。床ん下のじごを見れ。床ん下の骨を見れと。と言うて憎たらしゅうその、にくじを言いながら山に逃げ帰って、それを聞いたお爺さんが、成程ゆかいせんのところが、そのお婆さんの着物やら、じごやら骨やらが入っておった。
びっくり仰天してその悲しんだ。そこへ通り合わせたのが、そのウサギであった。お爺さん心配しなさるな、私が仇きをうってやろうと。と言うてそれから先がカチカチ山になるらしいですね。そんな話を聞かせてもろうて、助かったり助からなかったり。助かったり助からなかったり。もうどこまでも限りがない。信心しておってもです、ただ乗り的な信心ではです、何時まで経っても言わば何十年。
いや私の方はもう、おじいの代からばばの代から、ね、信心は続けておりますというてもです、同じような事。たいして金光様の信心を頂いちゃるけん、成程っと言う様なおかげになってこない。本気、本気で踏ん切りをつけるところは踏ん切りをつけさせてもろうて。ね。改まらせてもらう所は改まらせてもろうて、ね、行の上に本気で現せてもろうて、信心させて頂いとる者の本当の値打ちというものを、現して行かなければ。
頂いていかなければです、信心頂く者の、信心者としての真実の値打ちはないという事。ね、極端な話だけれども、そのかちかち山の前の話じゃないけれど、ね、そういうような、繰り返しの信心では本当につまらんことである。喜びの花が咲いた。ちょっとおかげの印が見えた。また散った。これではいけん。また喜びの芽が出て花が咲いとる。実が一つもなっていない。
そうしたそんおかげを頂いて本気で行の上に現して、それが実りになるようなおかげを頂かせてもらわなければ、馬鹿らしゅう事でもありゃ神様ん対して相済まんことでもある。神様が本当に、難儀な氏子の救済、一生懸命にいかになってくださっても、こちらがだから実るところのおかげに一生懸命ならなかったら、本当のおかげにならんという事が分かります。
(途中切れ)